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貴惣門のルーツを訪ねて―その一 

2009年5月7日・8日・9日

山口・広島・岡山・兵庫・大阪を旅してきました。
熊谷市、妻沼聖天山の山門、「貴惣門」のルーツを訪ねるという企画。
これは行かねば一生後悔すると、企画を聞いてすぐに申込をして参加したのでした。


まずは飛行機で羽田から宇部へ。
宇部には日本画家で大原三千院の舟形天井の再現や醍醐寺五重塔の天井画などの修復を手掛ける馬場良治先生のアトリエがあります。
このアトリエでは歓喜院聖天堂の絵画の修復も行われており、馬場先生自らご案内していただけることに。

P1000127.jpg

アトリエは静かな絵を描くには最高の環境にあり、内部で修復の様子や黴取り新技法の説明など貴重なお話をいただきました。





続いて、岩国の錦帯橋へ。
江戸時代初期に作られたこの橋は、戦後のキジア台風の被害を受けるまで一度も流されたことのない橋でした。しかし木造である事、技術の伝承という点から江戸時代には計画的な修繕が何度か行われています。

P1000241.jpg  tetudai.jpg  



江戸時代の中期、御作事奉行としてこの橋の修復を行った長谷川重(十)右衛門という人がいました。
その頃(1742年)関東甲信越では台風による大洪水が起き、多くの被害を受けていました。幕府は西国大名に災害復旧を命じます。

岩国吉川家は萩藩毛利家と共に利根川中流域の復興を命ぜられ、重右衛門は現在の熊谷市妻沼へとやってきます。工事の無事を願って参拝した聖天堂を見た重右衛門はその素晴らしさに感動し、聖天堂の建設を指揮した地元の棟梁林兵庫正清と懇意になります。
後に正清は聖天山の新しい門の設計を重右衛門に依頼。岩国へ帰った重右衛門は約束を守って設計図を正清に送ったのでした。

水害後の財政難、情勢不安などもあり、設計図を送られてから約100年後に門は立てられます。
正清の子孫により設計図の約3倍の大きさ、関東風の造りに改良されての完成となりました。
それが現在国指定重要文化財となっている貴惣門です。

上の写真は錦帯橋を下から見たものと御手伝普請の際に吉川家によって描かれた妻沼の地図です。吉川家の史料は錦帯橋を渡ってすぐにある徴古館に収蔵され、大切に保管されています。

錦帯橋ではなんと長谷川重右衛門のご子孫が迎えて下さって、「錦帯橋の一番の見どころはこの裏側の木組みなんですよ」と教えていただきました。
言われてみると、美しいアーチを支えるこの複雑な木組みもまた美しく、こういうところは一人でぶらりと訪れても気づかずに通り過ぎてしまうなぁと思いながら感慨深く見学したのでした。

江戸時代に災害復旧してくれたのも山口県(岩国)の人。
現在、その時に建てられた堂宇の天井画を修復しているのも山口県(宇部)の人。
なんだか不思議な縁を感じました。



P1000258.jpg  P1000287.jpg

この日の宿は宮島。
島に着いた途端、通り雨に見舞われ、せっかくの引き潮だったのに鳥居のそばまで寄ることができずませんでした。しかし、夜は部屋から奇麗なライトアップを見ることができたので満足満足。

昼の写真は潮が満ち始めたころ(この日の干潮は14:00頃でこの写真を撮ったのは15:30頃)
夜の写真は満潮時。厳島神社でガイドさんに説明してもらったのですが、実際見てみると思った以上の差で驚きました。

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[2009/05/17 20:19] 雑記 | TB(0) | CM(0)

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