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寛保洪水位磨崖標 

nagatoro-ranzan00.jpg先日の長瀞紅葉狩りドライブで立ち寄った水位標。
江戸時代、寛保二年(1742年)の大水の記録です。
大型台風の襲来により、7月末~8月上旬にかけて近畿、関東、北陸を未曾有の大水害が襲いました。

この水位標のすぐ近くには長瀞(荒川)が流れています。
案内板には以下のように書かれていました。
旧暦七月二十七日から四昼夜におよぶ豪雨のため、八月一日夜、荒川の水位は最高に達し、この付近一帯はことごとく水底に没した。
後日、地元の有志四方田弥兵衛・滝上一右衛門によってこの岩壁に「水」という字の磨崖標が刻まれた。
当時ここまで増水したと一目でわかる、荒川洪水史の貴重な記録である。
昭和四十六年十一月三日
     埼玉県教育委員会
     野上町教育委員会(※野上町は現長瀞町)

「崖」とあったので、もっと見上げるような場所にあるのかと思いきや、この案内板のすぐ裏側、土から出た岩肌に文字は彫りこまれていました。

nagatoro-ranzan01.jpg何か書いてあるのが分かるのは、丸で囲んだ部分。だいぶ風化してしまっているので、言われないと分からないですね。


拡大。
左の写真は上の写真の小さい丸で囲ったほう。
これはけっこうはっきり「水」の字が見て取れました。
nagatoro-ranzan02.jpg  nagatoro-ranzan03.jpg

右は大きい丸のほう。
何やら色々書かれているようですが……。
真ん中上部に「戌」のような字が見えます。
寛保二年は戌年で、この大洪水を「戌の満水」と呼ぶ人もいます。
とすると、ここに書かれているのは年月日やもしかすると四方田弥兵衛と滝上一右衛門の名なのかもしれません。


nagatoro-ranzan05.jpg  nagatoro-ranzan06.jpg

場所は見上げるような崖ではないと書きましたが、実は荒川の流れるところと比べるとかなりの高さがあります。
左の写真は水位磨崖から荒川の方へ向かう道。
結構な坂道になっています。水位標の所まで水が来たとすると手前の家は屋根まで水に漬かってしまうことになります。
右の写真は同じところからもう少し視線を先に延ばした感じで撮った物。
小学校の校庭の先に秩父鉄道の車両が見えます。
その奥、それもかなり下のほうに荒川が流れているので、磨崖票との高低差は10~15mくらいになるのではないでしょうか。

降り続いた雨によって村が一気に水の底になった様子を想像して、足が竦む思いがしました。

この水が関東の平野に一気に押し寄せ、利根川や数々の支流と共に江戸の町を襲うこととなります。





参考:
「天、一切ヲ流ス―江戸期最大の寛保水害・西国大名による手伝い普請―」(高崎哲郎/鹿島出版会)
「諸国洪水・川々満水―カスリーン台風の教訓―」(葛飾区郷土と天文の博物館)    
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[2007/11/24 21:13] ガイド・郷土史 | TB(0) | CM(0)

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