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歴史はツナガル……? 

「町誌」の戦国時代の部分を読みました。
わずか4ページなので、読みましたって程の量では
ないんですが。

「成田分限帳(なりたぶんげんちょう)」によると
1590年の忍城の水攻めの際、城に立て篭もった
三千余の中に、私の住む辺りの人たちもいた
という記録があるそうです。
名前と住所を見てみると、今でも同じ場所に
同じお名前の方が住んでいらっしゃる。

あの人のご先祖様が甲斐姫と一緒に戦ったのかも
しれないのかぁと思うと不思議な感じです。


あと、名前は残っていませんが他にも土地の人たちが
忍城水攻めに関わっていたようで、水攻めの堤防工事
について町誌にはこうあります。




  人夫一人の労働を、昼は永楽六十文に米一升、
 夜は百文に米一升ということで、近郷近在から
 人夫を集め、六月九日から昼夜兼行の工事を
 始めた。

  土地の人達は、ここに堤防を築いたにしても、
 忍城の水攻めの不可能なる事を知っていたので、
 領主成田氏の徳政に報ゆるのはこの時とばかり、
 進んで人夫の募集に応じたばかりでなく、支給
 された米を兵糧米にと寄進するものすらあったので、
 城兵たちもそっと城を抜け出て、人夫にまじって
 土石を運んだ。

 このような人夫による築堤工事なので、いたるところ
 で手がぬかれ、見かけだけは高さ一間から二間
 (1.8~3.6メートル)の堂々たる「石田堤」が五日間で
 完成したが、地盤の弱い堤防なので、予期したほどに
 流れ込まなかった水にも関わらず、新堤からは水が
 漏れ、寄せ手の陣中は水びたしとなって、やむなく
 高所を求めて陣地を後退するという始末であった。

 そのうちに大雨となって、急に水量がふえ、あっと
 いう間に新堤が切れ、激流となって寄せ手の陣中を
 襲い、忍城を水攻めにしようとして計画した光成軍が、
 あべこべに水攻めにあい、多くの溺死者を出してしまっ
 た。 




出典が書かれていないので、どこまで信用していい
のかわからないのですが、進んで人夫となり支給米を
兵糧として忍城に寄進したり、堤防工事を適当にやった
りとお話としては面白いなぁと思います。

町誌だとやはり成田側に立った見方になってしまうで
しょうから石田側の記録やお話も読んでみないと。
もちろん、中立なところからの見解も。


堤防の決壊は短期間の普請に無理があったのか、
内部工作者がいたのか、その両方が重なっての事
なのか、はたまた別に大きな要因があるのかも気に
なるところです。

しかし、その昔この土地に住む人たちがそんなところで
活躍していたのか……と思うと感慨深いですねぇ。

「石田堤」↓
gyouda060208-007.jpg
  

  参考・引用:「妻沼町誌」
   昭和52年3月30日 発行
   編集 妻沼町誌編纂委員会
   発行 妻沼町役場




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[2006/06/18 23:05] ガイド・郷土史 | TB(0) | CM(0)

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